こんにちは! 才能心理学協会・認定講師の澤田浩一です。
先日、映画「聖の青春」を観に行きました。
主人公の村山聖(さとし)さんは1998年に29歳の若さで亡くなられた実在の将棋の棋士です。
彼は5歳のとき、ネフローゼ症候群という腎臓の病気にかかっていることがわかり、小学校5年生まで入院生活を送りました。
子どもとしての自由がなく制限だらけの生活の上に、ともに入院していた子どもが亡くなるという体験もしています。
その入院生活の中で出会ったのがお父さんから教わった将棋。
彼は将棋に夢中になり、没頭します。
将棋は81マスの中で相手の意図を読み取り、王を詰めていく世界。
どれだけ先まで相手の意図を読み取れるか、そしてその裏をかいでそれを上回る手をどれだけ打てるかという深く広がりのある世界です。
そういう世界の中で彼は自分が唯一自由になれることを感じたのかもしれません。
やがて彼は将来の名人候補である谷川浩司を倒して名人になることを目指し、奨励会に入り、異例のスピードでプロになります。彼にとっては、死は身近なもので、日々の時間がとても大事だったのでしょう。
特に終盤が粘り強く「終盤は村山に聞け」と言われるほどであったそうです。
そしてそこに立ちはだかったのが将棋界で初の7タイトルを独占した羽生善治です。
彼は羽生打倒を目指し、ついに竜王戦で羽生を破ります。
映画では竜王戦の後、聖が羽生を誘い、酒を共にするシーンが出てきます(この場面はフィクションだそうです)。
そのシーンの中で聖は「神様のすることは僕には予測出来ない事だらけだ。」と言います。
身体の不自由さへの無念さをにじませながら自分がこんな身体じゃなかったら将棋に出会ってなかったかもしれないとも。
そこには自分の置かれた環境を受け止めようとしながらも、その中で懸命に将棋を通して生きようとする人の姿がありました。
現在私は54歳ですが、54歳の平均余命は28年。平均的には82歳まで生きることができます。
しかしながら50歳を過ぎたころから老眼になり、体力も落ちてきたことを感じます。高校からキープしていた体重も中性脂肪がついて増えてしまいました。
年齢を経るにつれ記憶力も低下し、意思決定の精度や業務スピードも低下します。
諸先輩からすれば、50代前半で老いを語るなと言われるかもしれませんが、老いとは残りの時間が少なくなること。
そのことを受け入れることは決して楽なことではなく、逃げたいことではあるけれども重みを受け入れるしかないと思います。
小屋一雄氏の「シニアの品格」(小学館)ではシニアの世代で大切なのは「これまでは何であったか、これからは何であり得るのか」ということだと言います。
自分が今まで培った能力・才能は何であったのか、そして老いに伴う身体能力の低下、業務スピードの低下、パートナーや友人との死別といった、神様でなければ予測できないような重い経験を受け止めながら、これからはどうあり得るのかを見つめて生きてこと、あるいはそういう準備をしていくことが50歳代からの才能開花のひとつの在り方だと、病気と向き合いながら生き抜いた聖の生き方を見て思いました。