こんにちは! 認定講師の澤田浩一です。
先日、妻に誘われて「生誕100年 いわさきちひろ、絵描きです。」展を観に行きました。
当初、いわさき ちひろは「絵本の挿絵を描いている人ね」程度の認識しかなかったのですが、行ってみて正直驚いた一枚の絵があります。
それは「小犬と雨の日の子どもたち」
何と、いわさきさんは雨を淡い赤や青、黄色などの色を使って表現しているのです。
雨を色で表現した絵はこれまで観たことがありませんでした。
なぜ彼女はこのような表現の仕方ができたのでしょうか?
調べてみると、そこには一人の女性として自立し、自分の才能を活かした姿がありました。
いわさきちひろさんは、1918年(大正7年)生まれ。
お父さんは陸軍築城本部の建築技師で、お母さんは女学校の先生です。
「コドモノクニ」という子供向けの絵雑誌が好きで、子どものころから絵を描くのが好きだったそうです。
当時の日本は、女性が成人したら家同士が決めた相手に嫁ぐのが普通の時代。
まして両親の職業柄、日本の軍国化に従い、家の中も軍国化していく中でちひろさんは過ごします。
結婚は親に決められ、夫と共に満州に行きますが、ちひろさんにとって身体に嫌悪感を覚えるほど嫌な相手だったそうです。
実は夫の方はやさしい人だったらしく、身体を触れるのも嫌がるちひろさんを乱暴に扱うことありませんでした。
ただその後、夫は夫婦仲を苦にして自殺していまいます。
ちひろさんにとって、その出来事は十字架のように一生重荷になっただろうと思います。
ちひろさんは帰国し、実家に戻りますが、ちひろさんのお母さんは当時、女子を満州の開拓団に送る「大日本女子青年団」という組織の主事をしていました。
ちひろさんも女子義勇隊の一員として再び満州に。
満州開拓団はその後戦況が悪化し、多くの日本人孤児が中国に取り残されますが、幸いちひろさんは知人の大佐の配慮で戦況が悪化する前に帰国します。
ですが帰国後、自宅が空襲に合い、全焼。
戦争が終わり、軍国化に協力していた両親は恩給が停止されて収入を失くし、長野で農業を行う羽目になります。
ちひろさんにとって家に縛られて生きるという価値観がここで崩壊したのだと思います。
戦後、興隆しはじめた共産党に入党、その後東京に出て共産党系の新聞社に入り、挿絵などを描く仕事につきます。
その後、紙芝居の依頼を受けたことをきっかけに画家として自立することを決意、ここから画家いわさきちひろの人生が始まりました。
共産党の活動で出会った松本善明氏と結婚、長男・猛氏を授かります。
ちひろさんの絵の中には長男・猛氏がモデルになった絵が数多くあるそうです。
猛氏が男の子で描かれたり、時には女の子の姿で描かれたり。
また子どもの成長とともにちひろさんの絵の中の子どもも成長していきます。
ちひろさんの絵には家族への愛で満ち溢れています。
そして描き方。
ちひろさんの絵は水彩画の絵の具が使われていますが、少女時代に習った書の技法が使われているのではないかと劇作家でちひろ美術館の初代館長であった飯沢匡氏は言います。
(参考「いわさきちひろ 知られざる愛の生涯」(講談社+α文庫))
またちひろさんが子どもの頃に好きだった絵雑誌「コドモノクニ」も展示されていましたが、そこには様々な色鮮やかな色彩が使われていました。
ちひろさんが培かった書の技法と「コドモノクニ」に見られるような色使い、そして家族への愛。
これが私の観て衝撃を受けた絵の秘密ではないかと思いました。
アルフレッド・アドラー(1870年– 1937年)は著書「生きる意味」(興陽社)の中で、伝統と教育がバリアとなって女性は創造的な立場にはないと述べています。
現在の日本も女性にとって自立のテーマはチャレンジングだと思います。
しかしいわさきちひろさんのような自分の才能を活かし、家庭を持ちながらも自立した生き方を送った先駆者の生き方は勇気を与えてくれるのではないでしょうか?
みなさんにとって本心からやりたいことは何でしょうか?
それを今の環境の中でどのように実現していきますか?
是非、展覧会で絵を観ながら考えてみてください。
「生誕100年 いわさきちひろ、絵描きです。」展は美術館「えき」KYOTOで12月25日まで